Latest Updates:

・ 2014年 12月29日、野村勲氏の作品リストを、“ARCHIVES”に掲載。
・ 2009年 9月 22日、アーカイヴス・ウェブサイトとしてリニューアル再開。
・ 2004年末頃、野村勲氏のリタイアに伴いサイト閉鎖。
・ 2002年、“The Sensitive Faculty of ISAO NOMURA”ウェブサイトオープン。 
Introduction:

本サイトにご訪問いただき、ありがとうございます。
このサイトは、日本で初めて1/43 スペシャリティ・カーモデルのプロ・モデラーとして活躍された野村勲氏が、現役時代当時に運営されていたものを、氏のご好意によりご了承を得て、本管理人が再開・運営するアーカイヴス・ウェブサイトです。
本サイトの再開・運営に当たっては、野村氏は直接関わっておられず、すべて本管理人の責任において行なわれました。
本管理人は、アマチュアのカーモデラーですが、野村氏が自動車模型の世界から身を引かれた後、偶然のことから氏と知り合いになる機会を得、遅ればせながら氏の作品のいくつかに接することができました。私が幸運にも拝見することのできた氏の作品は、現在の日本のカーモデル界の作品とは、その方向性がかなり異なるように見えました。なるべく実車の姿に近づけてそれをそのまま再現する精密縮尺模型というよりも、自動車という存在の本来の姿とは何なのか、ということを極限まで突き詰めて、それを捉える自らの感性と感覚を表現することに焦点をおいた制作姿勢は、単純な「模型」という概念を超えて、明らかにひとつの作品世界を目指したものでありました。
氏は、模型制作を、意識してひとつの「自己表現」と捉えていたようです。
ここに再び、氏の作品をカーモデル・ファンの皆さまにご紹介できるのは、私にとって望外の喜びであります。特に氏の作品を、輿 英治氏、故横山新次郎氏 おふたりのプロカメラマンの手によるすばらしい画像でお届けできたのは、 幸運でありました。
氏の作品を、実際にご覧になったことがある方は分かると思いますが、43分の1という小さなサイズだけでなく、氏の制作表現の特性からも、その作品を写真というメディアにより再現するということは、非常な困難が伴うであろうことは明らかであります。本サイトでご紹介する画像は、おふたりのプロカメラマンのタレントによる、ひとつの「表現」、すなわちもうひとつの「作品」であります。野村氏の作品を撮影することは、おふたりにとってもひとつの挑戦であったことでしょう。
そして同じく、再びこのような形で氏の作品に接することになる私たちカーモデラーにとっても、氏の作品に向き合うことは、今またひとつの挑戦になるのです。
2009年 9月吉日        
( ウェブサイト 管理人 )
   
banner of The Sensitive Faculty of ISAO NOMURAabout this Website:

このウェブサイトは、2002年から2004年末頃まで運営されていた 《The Sensitive faculty of ISAO NOMURA》を再開したものです。当初のウェブ・デザインは 齋藤マサヤ氏によるものでしたが、今回再開するにあたって、ウェブサーバと制作アプリケーションの変更により、氏のご了承を得て、当初のデザインに沿って本管理人が一部コンテンツを再構築しています。特に作品画像は、入手できる一番大きなサイズのものに差替えてあり、その他一部コンテンツに関して追加作業および最低限のアップデイトを行なっています。従いまして、本ウェブサイトの操作・処理上の問題点はすべて本管理人に帰責するものです。
また、サイトの概要をご紹介している本ページ《INTRODUCTION》のテキストは、サイト・リニューアルにあたり、その大部分が本管理人により新しく起こされたものであり、その文責はすべて本管理人が負うものです。



Masterworks of I. Nomura:

その対象を好きな人が部品から組み上げて完成させるように設計されている、「キット」と呼ばれる組立式模型。自分の好みによりそれを作り上げるか、または顧客の依頼により、その人の代わりに製作し完成させることを生業とする「モデラー」、あるいは「モデル・フィニッシャー」と呼ばれる職業は、かなり特異なジョブのひとつと言えるのではないでしょうか。既存のものを組立て仕上げる「モデラー」とは職人(アーチザン)なのか、あるいはアーチストにもなりうるものなのか?その答えは、作り手、あるいはその作品を手にしている人自身が決めることであって、世間一般に通じる答えというものは意味がありませんし、またその必要もありません。
しかし、野村勲氏が、自分の作る「模型」を自分自身の「作品」として認識するようになり、またそれが世間から認められた最初期のモデラーのひとりであったことは、はっきりと記憶されるべきことでありましょう。
それ以前から、既存のキットに手を加えディテイルアップを施して仕上げるプロのモデラーは、例えば鉄道模型の世界などでは存在していました。しかし、それに自らのサインを入れて販売したモデラーは、氏が嚆矢となるのではないでしょうか。野村氏は、カーモデルの製作を、単純なキットの組立完成とは考えず、自己表現の一手段として意識して捉えていました。氏においては、フォルムや色、光沢、ディテイルの表現が、実物の車を模写するだけのものではなく、それよりも自分の感覚を表現するほうに焦点が置かれ、それを実現するための制作技法やテクニックを自ら開発し、改善を続けたのです。たとえば、現在ではカーモデルの定番技法となってしまった「研ぎ出し」も、その過程でカーモデルのテクニックとしては氏によってはじめて考案され、実用化されたものでした。
Gallery 1:

Gallery 1では、輿 英治氏により1982年から90年代末頃まで、断続的に撮影された作品をご紹介します。輿氏による作品画像は作品集『野村勲1/43モデルカーの世界』でご覧になることができます。まるで実車をスタジオに搬入して撮影したかのようなシンプルで気品ある画像をお楽しみ下さい。

 
Gallery 2:

横山新次郎氏によって撮影された写真のギャラリーです。撮影は1980〜82年頃で、野村勲氏がまだフルオーダーモデルを製作する以前、氏の初期の作品群を対象としています。当時、野村氏はキットをストレートで組み、1週間に5〜7台位のペースで仕上げていました。
残念ながら撮影者の横山氏は故人となられましたが、本サイトを2002年に開設した当時、実に20年ぶりに公開する運びとなったものです。
Gallery 1 と比べ、野村氏の表現の変化や、おふたりのカメラマン各人がどのようにモデルカーの魅力を引き出したかという違いを、楽しんで頂けたらと思います。
S. Kishida's Wire Wheels work

野村氏が本格的にカーモデルの注文制作を開始したのは、1980年からでしたが、当時はまだ1/43カーモデルの黎明期。制作にあたって特に問題となったのが(現在でもしばしばそうですが)、ワイヤホイールとタイヤのクォリティでした。《プランビーズ》や《ウェスタン・モデルズ》など、当時はまだ大部分のキットの足回りが、ホワイトメタル むくのワイヤホイールや質の悪いゴム・タイヤなどで構成されており、野村氏の制作するカーモデルのグレードとバランスを合わせることができなかったのです。
これを解決したのが、カーモデル界初期のスクラッチ・ビルダーとして名高い岸田慎一氏による、フルスクラッチのワイヤホイールとタイヤでした。岸田氏は、真鍮棒を旋盤で引き出してリムとハブを作り、これに0.1mmの極細洋白線を張ってからワイヤスポークを編み上げ、ABS樹脂から旋盤で引いたタイヤと組み合わせる技法を確立し、1/43超精密カーモデル分野誕生のいしずえとしたのです。また岸田氏は、ホイールやタイヤを単純な縮小パーツとしては製作せず、常にそのモデルのバランスに合わせて一台一台径や巾を微妙に調整しました。このバランスをより完璧に確立するため、後にはワイヤスポーク張り以外の、タイヤやホイールリムの旋盤工作などは野村氏に引き継がれ、ホイールに関しては二人の完全なコラボレーション作業になりました。岸田氏自身は、他のモデラーからの製作依頼も引き受けておられたようですが、例えば、ボラーニの1/43 ワイヤスポーク・ホイールを製作するにあたって、フル・ストリングの72本張りは、野村氏のみに提供していたという逸話が残されています。野村氏以外のモデラーの作品に72本張りのホイールを使うことは、岸田氏の目にはバランス上耐えられなかったのです。